悲劇の武将が苔に込めた思いとは?
画像:PAKUTASO
「浮世をば 今こそ渡れ 武士〈もののふ〉の 名を高松の苔に残して」
苔に残して…
戦国史に名高い織田信長の統一事業として派遣された羽柴秀吉軍団による中国攻め。それに抗する最前線の城、備中高松城の守将として非業の最後を遂げた清水長左衛門宗治。毛利家の忠臣として最後まで忠誠を貫いた武将の時世の句に込めた思いとは?また、なぜ“苔”という言葉を込めたのか? 苔玉の太刀岡屋がその辺りを考察していきます。
最後までご覧いただければ幸いです。
苔に転生を願う武将、清水宗治とは?
悲劇の名将 清水長左衛門宗治備中(現在の岡山県)の豪族三村家の陪臣でありながら毛利家へ臣従し、備中高松城主となった武将。幼名は才太郎。毛利家への臣従の経緯は諸説ありますが、その能力を買われ小早川隆景の配下として毛利氏による山陰道・山陽道制覇作戦に従軍。その働きぶりは毛利本家からも高い評価を受けて厚い信頼を得ていました。
毛利家VS織田家
一時は浦上家の所領を制圧し上月城を確保、そこを前線基地として播磨侵攻を開始して姫路まで攻め込んだ毛利勢ですが、小寺官兵衛(後の黒田官兵衛)による迎撃に会いここで作戦を断念します。そしてそれ以降の毛利家は前線を大きく後退する事となります。
中国攻め
その2年後の天正5年(1577年)に織田家羽柴秀吉軍団による中国攻めを受け、山陰・山陽の勢力圏を次々と塗り替えられていきます。この中国攻め発動の時点で竹中半兵衛重治は存命であり、調略と戦わずして勝つ頭脳戦で羽柴勢の勢いは凄まじかったといいます。
※余談ですが竹中半兵衛の逸話として、城の攻略作戦立案の為のリサーチと戦略計画がとても綿密で、それが一冊の作戦計画書として完成した瞬間に城が落ちたと言われる程だったと言い伝えられています。筆者はこのエピソードが大好きです!かっこいい(´・ω・`)スキ
そして赤松家攻略、宇喜多勢撃破・上月城の山中幸盛(鹿之介)の悲劇・荒木謀反・別所家攻略鳥取城落城を経て備中高松城攻めへと移ります。
備中高松城
清水宗治を守将とする備中高松城は低湿地を利用した平地の城。そこに騎馬・鉄砲を配備した精鋭が立て籠もり徹底抗戦の構えを見せる毛利勢3,000(5,000説もあり)。対する織田勢は宇喜多家を取り込んだ30000。3000VS30000!しかし毛利方は清水宗治への厚い信頼と水軍優位から前線を見守る姿勢だったといいます。
しかしなおも抗戦を続ける姿勢の宗治に対し、秀吉は降伏すれば備中備後2カ国を与えるという破格の条件で調略しようします。宗治はこれを断固拒否!書状を主君の毛利輝元へ送り忠誠を示します。
気になったので石高を調べてみたところ、なんと備中は17万石・備後18万石、併せて35万石を超える報奨の調略です!※慶長3年(1598年)の石高一覧より
当時の秀吉の書状の盛りっぷりは有名だったようで、単純に相手にしなかっただけかもしれませんが誇り高きその武士たる振る舞いに毛利方はさらに評価を高めた事でしょう。
水攻め…
秀吉は武田攻略のなった織田方の情勢を鑑み主君織田信長の出陣を要請しながら時間稼ぎと言わんばかりに史上空前の作戦を決行します。
それが「備中高松城の水攻め」です。
蜂須賀正勝を奉行とし黒田孝高指導のもと、長大な堤防を築き約200haの湖を作り出し備中高松城を湖上の城とします。そしてそれは兵站を絶たれた事を意味し、宗治勢は完全に孤立させられてしまうのです。
宗治の評価
この報を受け、毛利方も宗治を救うべく出来得る最大限の行動に打ってでます。毛利輝元をはじめ吉川元春・小早川隆景を揃えた毛利オールスターで救援軍を組織します。ひとつの城を救うというよりは宗治を救うために毛利方首脳が総動員で駆けつけるという、目頭が熱くなる展開です(´;ω;`) 宗治への評価の高さをうかがえるエピソードですね。
そしてこの毛利救援軍の出現で高松城を巡る戦線は完全に膠着していきます。
毛利方は大規模な水攻めの前に救援の策が打てず、羽柴方は毛利首脳が最前線にいる好機ではあったが、包囲をとくわけにもいかず決戦に持ち込めない。そこで信長に援軍を要請する運びとなったわけです。
両軍は対峙しながらも講和交渉も同時に進めていて、「毛利家の5カ国割譲と清水勢の安全な開放」という毛利方の提案を秀吉は突っぱね、「5カ国割譲と清水宗治の切腹」という非情な決着を突きつけます。清水宗治への忠誠に対してなんとか救いたいが救えない毛利首脳はこの交渉過程を宗治にも伝えます。宗治は「自分の命が毛利家と城兵を救えるなら安い事」と自らの自刃を嘆願する書を安国寺恵瓊に託したと言います(´;ω;`)
そしてここで「本能寺の変」の急報が入り、ついに秀吉は講和に応じます。
宗治の最後
秀吉は宗治へ酒肴を贈ったといわれ、高松城中ではささやかな酒宴が行われたと伝わります。宗治は講和成立を受け城内を清めさせ、身なりをととのえ秀吉の本陣へ向かい杯を交わしたともされています。敵である秀吉にも高い評価を受けていたエピソードですね。そこで舞を踊り前出の
「浮世をば 今こそ渡れ 武士〈もののふ〉の 名を高松の苔に残して」
という辞世の句を詠んだといわれています。
天正10年(1582年)6月、籠城から2ヶ月後の結末でした。
辞世の句の「苔」というワードを考察
清水宗治は果たして無念のうちにこの句を詠んだのでしょうか?はたまた本望としてこの句を詠んだのでしょうか?
筆者はどちらの印象も受けませんでした。多くの方が連想されるとおり「苔」には悠久の時間を感じる最強のパワーワードであると思います。この備中高松城において繰り広げられた強者へ屈せぬ抵抗、毛利家の最前線を預かる職責を果たした自身と城兵たちへの敬意と誇り、それを永遠に後世に伝える事を望む気持ちが感じられます。
決して無駄な戦いなどではなかった
この自問自答を振り払うかのような名句に涙を禁じえません。
「今こそ渡れ」
この言葉には爽やかな疾走感を感じます。しかし、これは凄惨な籠城戦を逆説的に表現しているのではないでしょうか?そして主家や城兵達、またこの備中高松の地の未来を案ずる心境を表しているではないかと筆者は胸を打たれました(´;ω;`)ブワッ
そしてこの清水宗治の決断によってもたらされた結果がこちらです。
清水宗治自刃の結果
- 毛利家:「5カ国割譲」→「3カ国割譲」にとどまる
- 秀吉軍:早急な軍の方向転換で上方へ進軍
- 高松城兵:生命の保全
- 毛利家:後の豊臣政権下での重用
歴史的にも大きな転換となる節目で多大な役目を果たしたといえます。また主家や城兵を守った英雄と言ってよいのではないでしょうか?
もちろん内政や知略によって、または武勇によって名を残した英雄はたくさんいますが、この状況下でこれだけの結果を残したことも評価されるべきではと筆者は思うのです。
時世の句で垣間見えた葛藤、少なくとも私は杞憂であったと断じたい気持ちです。
そして「苔」に込めた想い、しっかりと受け止めさせていただきます。
おそらくこの将は、仮に他の戦にあっても活躍するであろう優秀な戦国武将だったのだと推察します。本当にお疲れ様でした。
もちろん内政や知略によって、または武勇によって名を残した英雄はたくさんいますが、この状況下でこれだけの結果を残したことも評価されるべきではと筆者は思うのです。
時世の句で垣間見えた葛藤、少なくとも私は杞憂であったと断じたい気持ちです。
そして「苔」に込めた想い、しっかりと受け止めさせていただきます。
おそらくこの将は、仮に他の戦にあっても活躍するであろう優秀な戦国武将だったのだと推察します。本当にお疲れ様でした。
【後日談】
秀吉は天下統一の後清水宗治への敬意の現れとして、宗治の嫡男景治を一万石の大名格で直臣とする事を打診しています。しかし景治はこれを辞退。変わらず毛利家臣として忠義を尽くしたと伝わります。また、お家は明治維新まで存続しその子孫は男爵に列せられたそうです。
秀吉は天下統一の後清水宗治への敬意の現れとして、宗治の嫡男景治を一万石の大名格で直臣とする事を打診しています。しかし景治はこれを辞退。変わらず毛利家臣として忠義を尽くしたと伝わります。また、お家は明治維新まで存続しその子孫は男爵に列せられたそうです。
おまけ
撮影:t-media(tachiokaya-media)
今回は趣向を変えて「苔」にまつわる歴史のお話となりました。
古来から愛されている植物や花は多いです。そして歴史のエピソードも多いのでいつか機会があれば紹介させて戴きたいと思っていました。ようやく先ずは一つ、お披露目させて戴きました。
良かった!
それでは本記事をご覧いただきありがとうございました!
この記事にたどり着かれた方は植物がお好きな方や興味を持たれた方、またふとした疑問や「なぜ?」と好奇心のある方だと思います。素晴らしい事です。このブログでは苔玉や植物、季節や自然に関する記事でお困りの方や調べ物にとお役に立てるサイト作りを目指しております。
今後ご質問や取り上げて欲しい事など積極的に対応していきたいと思いますのでコメントいただければとても励みとなります。よろしくお願いします!
またよろしければ他の記事もぜひ見てみてください!
ではまた次の記事で…(´・ω・`)
おすすめの過去記事はこちら
THANKS
画像:PAKUTASO記事:tmedia(tachiokayaメディア)
協力:太刀岡昇氏
コメント